ミッドウェイ
昨日(19日)映画「ミッドウェイ」を観た。
本当におかしなもので、なんでこんなに太平洋戦争のことばかり考えているのだろう。
でも積読の中に、太平洋戦争についての本がそれなりの数あるということは「ちゃんと知っておきたいテーマ」だったのだろう。
そして、やはりちゃんと知っておくべきことなのだと思う。
ミッドウェイ。
うーん、そもそもシネコンで全国上映されている商業映画なんだから、まあ、がっかりしたと言うのが、もともと筋違いなのです。
米映画でありながら、日本軍のことも、フラットに描こうという誠実さを感じた。
山本五十六は立派な人間として描かれていた。
浅野忠信演じる山口多聞が、生き残った部下たちは避難させ、自分は沈みゆく「飛龍」に残ると決め、ついていくという副将に「よかろう、一緒に月見でもしよう」という場面は、確かに美しかった。
でも一昨日から「虜人日記」(小松真一)を読んでいた私は、ちょうど筆者がネグロス島で米軍の攻撃を受けて山岳生活を始め、満足な武器どころか兵糧も無い中で「『食用野草図鑑』が大いに役立った」なんて、笑えないような、笑うしかないような、多くの日本兵は戦死でなく餓死をしたんだということを、改めて深くしみじみ感じていたりしたので、
「ああ・・・そう・・・ですか・・・」
みたいな虚しさしか感じ得なかった。
死に自らの解決を求めることに美学を感じることが、結局、他者への人命軽視にもつながったのではないだろうか。
「レイテ戦記(上巻)」より。
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(引用)
山本五十六提督が真珠湾を攻撃したとか、山下将軍がレイテ島を防衛した、という文章はナンセンスである。
真珠湾の米戦艦群を撃破したのは、空母から飛び立った飛行機のパイロットたちであった。レイテ島を防衛したのは、圧倒的多数の米兵に対して、日露戦争の後、一歩も進歩していなかった日本陸軍の無退却主義、頂上奪取、後方攪乱、斬込みなどの作戦指導の下に戦った、十六師団、第一師団、二十六師団の兵士だちだった。
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恐るべし「員数主義」
積読していた1冊。
やはり積読には意味がある。
「レイテ戦記」を再び中断して、読み始める。
山本七平も召集され、印島(フィリピン)に出征、捕虜になる。
大岡昇平の「俘虜記」も、この「一下級将校~」にも、この後読んだ「虜人日記」にも通底しているのが、職業軍人への違和感、そして一部への嫌悪感だ。
これは一時の高級官僚の不祥事とその体質への嫌悪感にも近いかもしれない。
でも失われた(そして失い続けている)20年を経て、高級官僚もいまはすっかりその社会的地位を凋落させ、むしろ庶民からの厳しい目線に汲々としているように思う。
バブル崩壊はある意味「敗戦」だったということであろうか。
そう考えると、いけいけどんどんで「大国日本」と思い込み、戦線を拡大していった日中戦争~太平洋戦争~敗戦、というのは、まさにバブルに踊った日本人に重なるではないか。
こんな比較はもういろんな人がしているようにも思うが。
さて、「一下級将校~」で印象に残ったのが「員数主義」。
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(引用)
問題は、検査そのものより、検査の内容と意味づけにあった。すなわち「数さえ合えばそれでよい」が基本態度であって、その内実は全く問わないという形式主義。それが員数主義の基本なのである。
それは当然に、「員数が合わなければ処罰」から「員数さえ合っていれば不問」へと進む。従って「員数を合わす」ためには何でもやる。
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たとえば、私的制裁の撲滅が厳命されたころ。
中隊長は毎朝のように「私的制裁を受けたものは手をあげろ」と命ずる。
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(引用)
だが昨晩の点呼時に、整列ビンタ、上靴ビンタにはじまるあらゆるリンチを受けたものたちが、だれ一人して手をあげない。あげたら、どんな運命が自分を待っているか知っている。従って、「手をあげろ」という命令に「挙手なし」という員数報告があったに等しく、そこで「私的制裁はない」ことになる。このような状態だから、終戦まで私的制裁の存在すら知らなかった高級将校がいても不思議ではない。
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現代の組織にも、当てはまりまくるんですど!!!!
うちの会社!!!うちの会社のこと???!!!
思えば軍隊とは、究極のブラック企業なんだろう。
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(引用)
いわば、命令と報告の辻褄はこれで合っている。
そして合っていれば、それでよい。これが員数主義であり、この主義は、前述のように、全帝国陸軍を上から下までむしばみつくしていたのである。
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つまり数字だけ辻褄を合わせること。
しかも、更にたちが悪いのは、それが虚構の世界の上で、だったことだ。
そもそも数字すら、合っていない。「合っていること」にすること。
これって、弱い人間のすることじゃないですか?
己の現実を見つめず、都合よく周囲の状況を解釈する。
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(引用)
日本軍は米軍に敗れたのではない。
米軍という現実の打撃にこの虚構を吹きとばされて降伏したのである。
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(引用)
米軍の攻撃は、常に員数という虚構を吹きとばして「実体としてはなにもない」ことを指摘しつづけただけに等しい。
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おのれをわきまえて生きよ。
大岡昇平を読む
「俘虜記」
「野火」
「ミンドロ島ふたたび」
「戦争における『人殺し』の心理学」(デーブ・グロスマン)
この夏は大岡昇平をよく読んだ。今も「レイテ戦記」にとりかかっている。
多くは、かつて買って「積読」していた作品。
積読は意味がある、という説を何かで読んだが、確かにあるのかも。
レイテ戦記が本棚にずっとあるのは分かっていたけど、読もうという意欲を失っていた。本が読むタイミングを待っていてくれた、ということだろうか。
読書の面白さのひとつが、ちょっとしたきっかけである分野や作家に興味を持ち、一気に何冊も読むこと。
今回は、たまたまCSで映画「野火」を見て、積読してあった大岡作品を読もうと思った。
そしてその流れで、「戦争における~」を読んだ。レイテ戦記を読むのは時間がかかるのと、「野火」を読んだ流れで読みたいと思ったから。
そしていよいよレイテ戦記(上巻)を読んでいたら、戦艦武蔵についてもっと知りたくなり、吉村作品を読んだ。
それが読み終わり、さあ再びレイテ戦記へ、というのが今。
こういう風に、なにかうまく転がるように読書が進むのは本当に楽しい時間だ。
(楽しい内容の分野ではないが)
武蔵が沈み、日本が負けることがあまりにも必然で、すべてが虚しい思いに包まれる。
これらの作品を読んでなお、戦争もやむをえないと思う人は、自分は絶対に戦場に行かなくていい特権的な地位にいて、さらに他者がどんなに悲惨な状況に置かれても胸が痛まない人だろう。
兵士の声を聞かねばならない。
傷つき、死んでいった兵士の声を。